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少し前、更に「清水富美加(千眼美子)」問題について考えてみた。 [その他]

果たして彼女は洗脳された可哀想な少女だろうか。

攻殻機動隊SACというアニメーションドラマにこんな話がある。
親の宗教を押し付けられていた子供が、SF的ギミックを使って
両親にその復讐を果たそうとするオイディプスコンプレックスの類型のような話だ。

この話を観て、特別な難しさは覚えないし
ナチュラルに子供に同情をおぼえる。
何故だろうか。

それは基本的人権などの、近代的な価値が現代社会において、人口に膾炙しているからだと思う。

そうすると、近代的な諸価値を人々が手にしていなかった
中世のキリスト教的価値に支配された時代を想起する。

もしあの時代に社会に普遍的な価値、つまりはキリスト教的価値を否定する生き方を選択したなら、それは社会的な、或いはそのまま肉体的な死を意味した。
もし今がそんな時代であったなら、攻殻機動隊の話に非常にリアリティを感じたかもしれない。

しかし、多数派が少数派を迫害するという風潮は未だこの社会においてもまるで否定されきっていない。
その一例がこの問題では無いだろうか。

その意味では皆、未だに絶対的価値というものを信じているのかもしれない。
日本において、神は死んではいないのだ。

社会に翻弄される彼女の生き方に同情している。
両親の宗教を受け継いだ彼女は、
その宗教的価値と世間とのギャップに相当苦しんで、今の生き方を決断したはずである。

彼女の問題を考えることは、自分の価値観を考えるのみならず、
同時に現代社会の問題を考えることでもあるように思う。


(尚、私は幸福の科学のシンパでもなければ清水富美加の熱烈なファンというわけではありません。)

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去年、「清水富美加(千眼美子)」問題について考えてみた。 [その他]

清水富美加問題。

意見をいう各人、絶対的メンタル弱者という存在を想像して自分・あるいは世間のそれに当てはまらないから、本人はそれほど弱ってないだろうと指摘する。

本当は相対的なもの、つまり各人によってキャパシティが違うだけなのにね。

これは差別の構造とも似ていて、
みな一様に絶対的弱者=絶対的強者というものを無意識に想像し既定している。
実際は、社会は構成として多数派と少数派に分かれる為、
少ないほうが差別されるという話に過ぎない。

つまり我々は相対的に弱者(少数派)と強者(多数派)になってるのであって、
結局のところ絶対的弱者(絶対的強者)など存在しない。
絶対的弱者(差別されるに足る理由のある弱者)など存在しない。

強いていうならこの構造に乗っかって、
自分より下の者を見付けて差別する人間がそれだろう。
彼等はこの構造が転換されうる(相対的な為、自分が少数派にまわる)という想像力が無い。

2016年

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